『史記』現代語訳:五帝本紀・帝舜(3)

『史記』原文

此二十二人咸成厥功:皋陶為大理,平,民各伏得其實;伯夷主禮,上下咸讓;垂主工師,百工致功;益主虞,山澤辟;棄主稷,百穀時茂;契主司徒,百姓親和;龍主賓客,遠人至;十二牧行而九州莫敢辟違;唯禹之功為大,披九山,通九澤,決九河,定九州,各以其職來貢,不失厥宜。方五千里,至于荒服。南撫交阯、北發,西戎、析枝、渠廋、氐、羌,北山戎、發、息慎,東長、鳥夷,四海之內咸戴帝舜之功。於是禹乃興九招之樂,致異物,鳳皇來翔。天下明德皆自虞帝始。
舜年二十以孝聞,年三十堯舉之,年五十攝行天子事,年五十八堯崩,年六十一代堯踐帝位。踐帝位三十九年,南巡狩,崩於蒼梧之野。葬於江南九疑,是為零陵。舜之踐帝位,載天子旗,往朝父瞽叟,夔夔唯謹,如子道。封弟象為諸侯。舜子商均亦不肖,舜乃豫薦禹於天。十七年而崩。三年喪畢,禹亦乃讓舜子,如舜讓堯子。諸侯歸之,然後禹踐天子位。堯子丹朱,舜子商均,皆有疆土,以奉先祀。服其服,禮樂如之。以客見天子,天子弗臣,示不敢專也。
自黃帝至舜、禹,皆同姓而異其國號,以章明德。故黃帝為有熊,帝顓頊為高陽,帝嚳為高辛,帝堯為陶唐,帝舜為有虞。帝禹為夏后而別氏,姓姒氏。契為商,姓子氏。棄為周,姓姬氏。

『史記』書き下し

此の二十二人、咸、厥(そ)の功を成す。皐陶は大理と為りて平らげ、民は各〻伏して其の実を得。伯夷は礼を主り、上下咸譲る。垂は工師を主り、百工、功を致す。益は虞を主り、山澤、辟(ひら)かる。棄は稷を主り、百穀、時に茂る。契は司徒を主り、百姓、親和す。龍は賓客を主り、遠人至る。十二牧行きて、九州敢て辟(そむ)き違うもの莫し。唯だ禹の功を大と為す。九山を披き、九澤を通し、九河を決し、九州を定む。各々其の職を以て来貢し、厥(そ)の宜しきを失わず。方五千里、荒服に至るまで、南のかた交阯・北発、西のかた戎・折枝・渠廋(シュウ)・氐・羌、北のかた山戎・發・息慎、東のかた長・鳥夷を撫し、四海の内、咸帝舜の功を戴く。是に於いて禹乃ち九招の楽を興し、異物を致し、鳳凰、来たり翔ける。天下の明徳、皆虞帝自り始る。

舜、年二十にして孝を以て聞こゆ。年三十にして堯、之を挙ぐ。年五十にして天子の事を摂行す。年五十八にして堯崩ず。年六十一にして堯に代わりて帝位を踐む。帝位を踐みて三十九年、南に巡狩して、蒼梧の野に崩じ、江の南の九疑に葬らる。是を零陵と為す。舜の帝位を踐むや、天子の旗を載せて、往き、父瞽叟に朝し、虁虁(キキ)として、唯だ謹み、子の道の如くす。弟象を封じて諸侯と為す。舜の子商均も亦不肖なり。舜乃ち豫め禹を天に薦む。

十七年にして崩ず。三年、喪畢り、禹も亦乃ち舜の子に譲り、舜の堯の子に譲るが如くす。諸侯、之に帰す。然る後禹、天子の位を踐む。堯の子丹朱・舜の子商均、皆彊土を有ち、以て先祀を奉ず。其の服を服(き)、礼楽は之くの如くし、客を以て天子に見ゆ。天子、臣とせざるは、敢て専らにせざるを示す。黄帝自り舜・禹に至るまで、皆同姓なり。而して其の国号を異にし、以て明徳を章かにす。故に黄帝を有熊と為し、帝顓頊を高陽と為し、帝嚳を高辛と為し、帝堯を陶唐と為し、帝舜を有虞と為す。帝禹を夏后と為し、而して氏を別って、姓は姒氏とす、契は商と為し、姓は子氏とす。弃は周と為し、姓は姫氏とす。

『史記』現代日本語訳

〔承前〕

この二十二人は、みな功績を挙げた。皐陶は司法長官(大理)として天下を平らげ、民はそれぞれ法に従い、代わりに安定した生活を手に入れた。伯夷は礼を司り、身分の上下に関わらずみな譲り合うようになった。垂は職人の統率を司り、職人たちは優れた道具を作った。

益は自然管理長官(虞)を務め、山や沢が利用できるようになった。棄は食糧長官(稷)を務め、全ての穀物が時に応じて茂った。契は行政長官(司徒)を務め、官吏たちが和み合うようになった。竜は接客を司り、、遠くから客人が来た。十二人の地方長官(牧)が赴任して、全土(九州)に謀反人はいなくなった。

二十二人は己の功績を誇らず、ただ禹の功績をたたえた。九つの山を開拓し、九つの沢に道を通し、九つの河を治水し、全土を管理した。各地の服属民はそれぞれ与えられた責務を果たし、その貢ぎ物を持って都に服属の礼をとりに来て、好ましい態度を失わなかった。

都を中心に五千里四方の果てに至るまで、南方は交址・北発、西方は戎・折枝・渠廋(キョシュウ)・氐(テイ)・羌(キョウ)、北方は山戎・発・息慎、東方は長・鳥夷を服属させ、世界(四海)中、みな帝舜の政治に服属した。そこで禹は舜の徳を讃えた九招の楽を奏でさせ、珍しい貢ぎ物を都に届けると、めでたい鳳凰が飛んできた。このような繁栄の天下は、舜の時代が初めてだった。

舜は二十歳で孝行者として有名になった。三十歳で尭が官吏に任じた。五十歳で天子の仕事を代行した。五十八歳で尭が崩御した。六十一歳で尭に代わって帝位に就いた。それから三十九年、南方を巡察して、蒼梧の野で崩御し、長江の南の九疑に葬られた。これを零陵と言う。

舜が帝位に就くと、天子の旗を立てた車に乗り、父瞽叟に再開して、にこやかに謹んで、子としての道に尽くした。弟の象を諸侯と任じた。舜の子・商均も不出来だった。そこで舜はあらかじめ禹を天に帝として推薦した。

舜が帝位に就いて十七年で崩御した。三年の喪が開け、禹もまた舜の子に帝位を譲ったのは、舜が尭の子に譲ったのと同じだった。諸侯は禹に服従した。その後で禹は、天子の位に就いた。尭の子・丹朱と、舜の子商均は、みな領地を持ち、その税収で祖先の祭祀を行った。

丹朱と商均は天子の子としての服を着て、儀礼や音楽は天子と同じであり、臣下ではなく客として天子に会った。禹が二人を臣下にしなかったのは、権力を独占しない事を表明するためだった。黄帝から舜・禹に至るまで、みな姓は同じだった。ただ国の名前だけを変え、その徳を表現した。だから黄帝を有熊、帝顓頊を高陽、帝嚳を高辛、帝尭を陶唐、帝舜を有虞、帝禹を夏后と呼び、氏は違うが姓は同じ姒(ホウ)だった、契は商の先祖であり、姓は子氏。棄は周の先祖であり、姓は姫氏だった。

『史記』訳注

鳳凰:この伝説以降、聖王が現れて徳の至った政治を行うと、どこからともなく鳳凰が飛んでくることになった。実際に鳳凰のように見える珍しいトリが居たとしていいが、孔子は真に受けて「おかしいなー、鳳凰が飛んで来ないじゃないか」と論語で嘆いている

つまり善政→鳳凰というはずだったのが、鳳凰→善政ということになって(逆は必ずしも真ではない)、権力者に媚びるには、ツチノコ探しのように鳳凰発見が手段の一つになった。儒者や漢学者は記憶力はいいものの、数学的論理はまるでだめだったから無理も無い事である。

日本にもこの伝説は受け継がれ、足利義満の別邸だった鹿苑寺金閣の頂点には、鳳凰が鎮座している。もう焼けてしまって確かめようがないが、義満当時からあったとすれば、義満への媚びへつらいを表している。

下って江戸時代、松平定信は武家や知識人のみならず、庶民の日常生活までうるさく取り締まって嫌がられたが、戯作者の恋川春町(実は小藩の家老)は『鸚鵡返文武二道』で定信をからかって、あまりにいい政治だから鳳凰が飛んできた、と書いた。当然、定信は激怒し、春町を自殺に追いやった。

史記 鸚鵡返文武二道 鳳凰

『史記』付記

なし

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コメント

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